― Original Short Story ―

そよ風の子守歌
by Sin

 まだ朝靄が残る、午前5時……
 一軒の家で、1人の女性が眠り続ける夫を起こしていた。

「裕哉さん…裕哉さん、起きて……」
 幾度呼びかけてもまったく目を覚まさないので、その女性はゆさゆさと揺さぶった。
 それで、ようやく僅かに身動ぐ。
「……う…んぁ……ん?」
「裕哉さんってば。遅刻しちゃうよ」
「……ん……ぁ……沙和子……?」
「『沙和子?』じゃないでしょう? 早く起きないと朝御飯食べる時間無くなっちゃうよ?」
「ふぁ…ぁ……ごめん、寝坊した?」
「今ならまだ大丈夫。ほら、早く顔洗ってきて」
「わかったよ。あ……」
「どうしたの?」
「ここ、何か付いてるよ」
「えっ、どこ?」
「ここだって。ほら……」
「え? あ、きゃっ!」
 突然、抱きしめられて、沙和子は思わず悲鳴を上げる。

「ちょ、ちょっと、裕哉さ――んぅぅっ!?」
 更に唇まで奪われて、目を瞬かせた。

「ふぅ……やっぱり朝はこうでなくちゃ」
 そう言って笑う裕哉に、沙和子は頬に手を当てて真っ赤になって俯く。

「も、もう、馬鹿なことやってないで、早く顔洗ってきてよ」
「あはは、わかったよ。そう膨れるなって」
「だって……」
「沙和子だって、キス好きだろ?」
「そうだけどぉ……」
「ま、そういうことで」
「もう……」

 いつもの光景。
 結婚して2ヶ月。
 あの日から毎日のように繰り返される2人の時間。

 そっと指を絡めて見つめ合う。誰に邪魔されることもない2人だけの……
 そしてゆっくりと時間は過ぎて……

「あ――っ!!」
「な、なんだ!?」
「時間っ!!」
「あ、や、やばいっ!!」
 慌てて飛び起きた裕哉はすぐに着ているパジャマを脱ぎ捨てると、スーツに着替え始めた。
「裕哉さん、朝御飯は!?」
「ごめん、食べてる時間ない!!」
「もう! だから早く起きてって言ったのに!!」
「だからごめん!!」
「しょうがないなぁ……じゃあちょっとだけ待って!」
「え? なに?」
「何も食べなくちゃ身体に悪いよ! だから、おにぎり作るから持って行って!!」
「…ん、ありがとな」

 そう答えて支度をする裕哉。
 やがて準備が終わる頃、沙和子が1つの包みをもってきた。

「はい、裕哉さん。色々入れておいたからね」
「ありがとう」
「……今日も遅くなるのかな?」
「多分………だけど珍しいな、そんなこと聞いてくるなんて」
「……だって、今日くらいは早く帰ってこられないのかなぁって思って……」
「ま、できるだけ早く帰れるように頑張るよ。でも、今日って?」
「もう、また忘れてる。裕哉さんの誕生日じゃない」
「あ、そうか」
「私の誕生日とか、つきあい始めた日だとか、結婚記念日とかは絶対に忘れないのに、どうして自分の誕生日だけは忘れちゃうのかなぁ…」
「あはは……」
 溜息混じりに言った沙和子の言葉に、苦笑する裕哉。

「それじゃあ、行ってくるよ」
「あ、裕哉さん」
「ん? あ……」
 振り返った裕哉の唇に重なる温もり。
 そのままそっと抱きしめて、しばし抱擁の時を重ねる。
 やがて唇を離した沙和子は優しく微笑むともう一度ギュッと裕哉の身体を抱きしめてから離れた。
「……ふふ、行ってらっしゃい」
「ああ、行ってくる」

 裕哉の姿が見えなくなるまで見送ると、沙和子は1人、溜息をつく。

「……はぁ…これで、裕哉さんが帰ってくるまで、一人っきりかぁ……」

 寂しそうに呟いたその時、胸元の携帯が鳴り出した。

「えっ……あ、裕哉さん…今頃どうしたんだろう……? はい、私です。どうしたの、裕哉さん?」
『あんまり寂しそうな顔するなよ』
「え……?」
『お前が今どんな顔してるかくらい、わかるよ。できるだけ早く帰れるようにするから、家のこと頼むぞ』
「う、うんっ! 裕哉さんもあんまり無理しないでね」
『わかった。あ、バスが来ちまった。それじゃあまたな』
「うん……ありがと……裕哉さん……」

 暖かい想いが胸に溢れて、沙和子の目の端には涙が……

 そしてゆっくりと時間は流れて……


 沙和子は楽しそうに家事をこなし、裕哉は仕事をなんとか残業2時間で終わらせると、帰路についた。

 帰ってくる夫を迎える沙和子の心はいつも喜びでいっぱいだ。
 辛い仕事を少しでも早く終わらせようと頑張る裕哉が疲れ切って帰ってくるのもいつもの事。

「ふぅ、ただいま〜」
「裕哉さん♪」
 そう言って、キスで迎える沙和子。
 少し長めのキスのあと、「おかえりなさい」と微笑んだ。

「食事とお風呂、どちらを先にする?」
「汗かいたから、先に風呂入るよ。沙和子、一緒に入るか?」
「え? あ、えっと……う、うん……」
 照れくさげに頬を赤らめて頷く沙和子。

 裕哉の脱ぐスーツをハンガーに掛け、着替えの支度をすると、2人で一緒に風呂に入る。 始めこそ恥ずかしがって一緒に入れなかったが、この2ヶ月の間に何度も夫婦の時間を過ごしたから、今ではタオルで隠す事もなく、一緒に入れるようになった。

 身体を洗い終えたあと、あまり広くない湯船に、寄り添って2人で入る。
 素肌のまま夫の腕に抱きしめられて、密着した身体の温もりに沙和子の胸はいつも高鳴っていた。
 そのまま唇を交わし、抱きしめ合う2人。

 まるで時間が止まってしまったかのように、ゆっくりと2人の時間は流れ……

「う〜ん……頭がぼ〜っとするぅ……」
「ふ〜っ……少しのぼせたかな……」

 ようやく風呂から上がってきたときには、2人ともすっかりのぼせていた。


 しばらく休んだあと、2人でゆっくり夕食。
 日に日に腕を上げ、メニューも増えていく沙和子の手料理を楽しみつつ――

「はい、裕哉さん。あ〜ん」
「……照れくさいって」
「だ〜め。はい、あ〜ん」
「あ、あ〜ん」
「ふふっ、くすくす……」

 真っ赤になる裕哉の様子に笑いながら――

「あ、沙和子、ソースついてる」
「え? どこ?」
「ほら、ここ」

 そう言って、口元に付いたソースを舐め取ったり――

「も、もう……裕哉さんったら……」

 照れくさがりながらもキスでお返ししたり――

 2人の食卓はいつも賑やかで、他人の入る隙間すらない程に愛に満ち溢れていた。


 やがて食事も終わり、後片づけをする沙和子の傍で裕哉も一緒に片づける。
 沙和子が洗い、裕哉が拭いて棚に片づけていく。
 
 一緒にやれば2人分の食器洗いくらいすぐに終わって……


 今、裕哉は沙和子の膝枕でのんびりとくつろいでいる。

「今日も暑いね…裕哉さん、いつもお仕事ご苦労様です」
「沙和子が家の方をしっかりやってくれるお陰だよ。まだまだ大変だけど、これからも2人で頑張ろうな」
「うんっ♪」
 嬉しそうに微笑む沙和子。
 頬にそっと裕哉の手が添えられて……
 また、2人の唇が重なった……


 それからしばらくの時が流れ……

「裕哉さん……? あ…くすっ…可愛い寝顔……」
 膝枕で眠る裕哉の姿に、微笑む沙和子。

「いつも裕哉さんが頑張ってくれるから……こうして幸せに暮らしていけるのよ……ほんとにありがとう……裕哉さん……」

 呟くように言った沙和子の唇が、そっと裕哉の頬に触れた……


 夢うつつの中、裕哉はなにかを聞いた。

 それはとても穏やかで……

 愛情と優しさに満ち溢れた声で……

 眠る裕哉を包み込むように響いている……

 そっと髪を揺らしたそよ風に乗って、聞こえてきたそれは……

 子守歌――だった……


戻る